リヒテルを読んでみる

昨年から家で過ごすことが多くなり、小説や音楽書を読んだりDVDやYouTubeを眺める時間がふえた。といっても、本の場合、長編を何冊もがむしゃらに読み通す気力も体力もないので、本当に興味のあるものだけに限っているけれども。

ずっと気になっていた「リヒテルは語る」(ユーリ―・ボリソフ/宮澤淳一訳 ちくま学芸文庫)が入手できたので読み始めている。ソ連時代の大ピアニストであるスヴャトスラフ・リヒテルは、日本をたびたび訪れコンサートを開いたことは本ブログでも述べた通りだが、あまり人前に出ることを好まず、メディアに登場する機会もなかった。海外でもそうだったらしい。当然のこと「記者会見」はありえず、まとまったかたちでのインタビューもついぞ行われなかった(はずだ)。日本語で読める本格的な評伝もブリュノ・モンサンジョン(フランスの映像作家)の聞き書きによるインタビューが一冊あるのみである。

なので、人物像についてはあまり知られていないし、芸術についてのストレートな言動もあまり残されていない。これは、かの名指揮者カルロス・クライバーも同様で、いまではベルリン・フィルのシェフ、キリル・ペトレンコがそうだ。演奏家は演奏内容が傑出していればそれで良いわけで(ある程度プロモーションは必要としても)名声は自ずと高まる。とくに現代のネット社会においては、逆に、情報性が少ないが故に生まれる“神話性“が価値を高めるのではないかと思う。“メディア慣れ”し、おしゃべりは上手でも演奏のクオリティが伴っていない演奏家は飽きられる。

それはさておき、そんなリヒテルを映画監督で演出家のユーリ・ボリソフ(1956~2007)が、自宅に何度も訪問し、録音とノートへのメモ書きを基にして原稿を作ったという。巨匠に「自由きままに語らせる」というのが狙いだったようで、評伝的なドキュメントというより、散文的で、時に話題が思わぬ方向に飛んだりするのもそのせいかも知れない。リヒテル本人が原稿をチェックしたかどうかは不明だが(自分の演奏録音にも無関心だったという伝説もあるくらいだから)、それだけ若いボリゾフを信頼していたか、親しい間柄だったに違いない。

完読していないので現時点での感想を。

とにかくリヒテルの博覧強記ぶりに驚かされる。物知りだ。文学部の大学教授みたい。蓮見重彦と齋藤孝を足して二で割ったところに岡田暁生を加えたかのような博学振りをみせる。モーツァルトやベートーヴェンなどの作曲家を語るときに、プーシキン、プルーストなどの小説や美術、とくに演劇と映画作品までをひっぱりだしてきて説明しようとする。とくにリヒテルが映画に詳しいのには誰もが驚くだろう(当時はビデオなどないから演奏活動の合間に映画館に通っていたのか?)。音楽作品について語るときにジャン・コクトーの「オルフェ」、ピエロ・パオロ・パゾリーニの「アポロンの地獄」、フェデリコ・フェリーニの「カビリアの夜」やイングマル・ベルイマンの「魔笛」等の作品が紐づけされるのだ。マレーネ・ディートリヒやグレタ・ガルボとも面識があり、ワーグナーの《タンホイザー》ではディートリヒがヴェ―ヌス役を演じるのを夢想した、と言ったりもする。

リヒテルの場合、こうした映画・演劇鑑賞の経験などが、ピアノ作品を弾く(解釈する)うえでの土台の一つとなっていて、演奏とは単に楽譜とにらめっこするだけで生まれるものではないのである。

ネタバレになるのでこれ以上の詳細は伏せるが、ショパンのプレリュードの内容をどう表現しているかも実に興味深い。

ボリゾフが演劇人で映画監督であるからこそ、リヒテルは(おそらく長期間にわたる)取材に応じたのだろうが、そうだとすればなぜ映像で残さなかったのか。リヒテルのこだわりがあったのだろうか。ボリソフも他界しているので、そのあたりは謎だが。

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